2018/04/02
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スペシャルコラムドラッカー再論
第116回
マネジメント教育「ではないもの」は、何か?
- エグゼクティブ
- マネジメント
- 井上 和幸 株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO
「第一に、マネジメント教育とは、セミナーに参加することではない。セミナーはツールの一つである。それ自体がマネジメントであるわけではない。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』、1973年)
ドラッカーは、特に長期間に渡ってマネジメントの人間を仕事から切り離すセミナーには疑問を抱かざるをえないと述べている。
おっしゃる通りだと思う。
もちろん、マネジメントサイエンスなども、基礎学習は必要で、その理論、フレームワークや体系を座学することは、最初は大事だろう。
しかし、実際のマネジメント執行現場で必要な教育とは、個々個別の事業、組織、人のニーズに合うものでなければ意味がない。
「いかなる種類のセミナーよりも、実際の仕事、現実の上司、組織内のプログラム、一人ひとりの自己啓発プログラムのほうが、大きな意味を持つ。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』、1973年)
マネジメントとは行動志向たるべきものであり、学んだこと、考えたことを直ちに利用できなければ、せっかくのマネジメント・コースも意味をなさない。
「13週間も上級マネジメント・コースに出ていたのでは、帰ってきたときには場所がなくなっている。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』、1973年)
ドラッカーはここで、アフター5(、アフター7)のものや、週末ごとに開催され、すぐに現場に帰り実践活用できるような形態のものに、良いものが多いと述べている。これは参考にしたい点だ(手前味噌だが、当社のセミナー事業も、これを踏まえた実務実践プログラムに徹している)。
トップマネジメント・コースの多くが、内容は経験も責任もない若手のもので、セミナー代だけがトップマネジメント向きだと、ドラッカーは強烈な皮肉を書いている。現実のトップマネジメントにとっては、時間の無駄というべき代物だ、とドラッカーが断言するのだから、実際にそうなのだろう。
「第二に、マネジメント境域はエリート育成のためのものではない。それらのものは全て無駄である。有害ですらある。組織がなしうる最悪のことは、エリートを育成すべく他の者を放っておくことである。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
ドラッカーは、エリート探しは無駄であり、でたらめに選んだ方がましだと言い切る。見込みと現実の間にはほとんど相関関係はない。「選ばれたエリートの半分は、40代にもなれば口がうまいだけの者だったことが明らかになる」。
王子様探しはやめよ、大事なのは現実の仕事ぶりだ、とドラッカーは言う。これもまた、現場を預かる経営者の皆さんには、大いに頷けるものだと思う。
(大手企業のHR責任者の方がこのコラムをお読みになられたら、気分を害されているかもしれない。)
「第三に、マネジメント教育は、人の性格を変え、人を改造するためのものではない。成果をあげさせるためのものである。強みを存分に発揮させるためにもの、人の考えではなく自らの考え方によって、存分に活動できるようにするためのものである。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
我々は、成人の人格を変える方法など知るわけもなく、成果をあげる能力についてわずかに知るのみだ、とドラカーはコメントする。
マネジメント教育とは、人の個性や感情に立ち入るものではなく、ましてや心理的な操作など許されることではない、と。教育の対象は、あくまでもマネジメントに関わるスキルであり、マネジメントの仕事の構造であり、諸処の関係——働く者がスキルを使いこなす上で知っておくべきことだと言う。
マネジメント教育とは、その人のあるがままに、持てるものを使って、成果をあげられるようになってもらうためのものだ。
(続く)
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