2017/11/20
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スペシャルコラムドラッカー再論
第99回
企業と政府の関係。
- エグゼクティブ
- マネジメント
- 井上 和幸 株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO
「企業にとって政府との関係は重要である。マネジメントたる者は自らの組織についてと同様、自らの組織と政府との関係についても責任がある。これは企業にとっては社会的インパクトに関わる責任である。ほとんどの場合、政府との関係は、企業が何かをしたことの結果として、あるいは何かをしなかったことの結果として生じる。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』、1973年)
ここまで見てきた企業活動と社会的インパクトとの関係、企業の社会的責任を鑑みれば、複雑な相互依存の社会において、明確なミッションを持つ有能な政府が求められているのは明らかだ。
しかし、ドラッカーは『マネジメント』を著した1970年代前半において、政府と企業の関係において何らかの答えを出せる段階には至っていないと述懐している。それは、その後40年を経た今に至っても、おそらく大勢に大きな変化はないと言わざるを得ないだろう。
歴史や経済の教科書は、企業と政府の関係を現すモデルとして幾つかのことを説いてきた。曰く、自由放任主義(レッセ・フェール)、曰く、重商主義(マーカンティリズム)、立憲主義(コンスティチューショナリズム)。
自由放任主義は、厳密には経済理論のモデルであり政府のあり方を規定するものではなく(介在するな、ということ以上のことを意味していない)、成り立ちとしても実際には19世紀中頃のごく短い期間に行われたに過ぎないとドラッカーは説明する。
重商主義は18世紀あるいは17世紀までさかのぼるもので、欧州、日本、インド、あるいは旧・ソ連がこれに該当するとドラッカーは言うが、これは元来、経済とは国の主権、特に軍事力の基盤であるという考えから成り立っている。外的な脅威から国家主権を守るための軍事力を賄うために企業があると17世紀の重商主義では扱われた。これは現在、国家の主権が経済力、すなわち海外における競争力にあるという考えに引き継がれている。すなわち、輸出こそがあらゆる政策の目標であり、政策の成否の判定基準であるとする考え方だ。日本において、戦後の高度経済成長期に護送船団方式(「ジャパン・インク」)と言われ、アメリカから非難されたものは、過去から現在に至るまで国家元首、大統領や首相による「トップ営業」でまた、主要な各国で行われていることでもある。
立憲主義は「企業活動は企業人に任せきってしまうにはあまりに重要である」とする考え方で、重商主義が企業を指導、誘導、補助するのに対して、立憲主義は企業に「何々するなかれ」という。反トラスト法、規制機関、政治告発を多用する。重商主義が企業活動を支援するのに対し、立憲主義はいかなる状況下にあろうとも企業は政府から可能な限り遠ざけておこうとする。
19世紀から20世紀にかけての約1世紀、重商主義と立憲主義は政府と企業の関係についての規範となり指針となってきた。
しかしいまやいずれも陳腐化してしまったとドラッカーは述べる。
「それは、(1)混合経済の進展、(2)グローバル企業の発展、(3)社会の多元化、(4)マネジメントの台頭があったからだった。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
(1)については、今日あらゆる先進国経済が、規制、監督、助成、罰則、営利、非営利、公営の複雑な絡み合いとなっている。株式会社でありながら公有公営の組織がある。国有でありながら、自由市場にあって民間セクターに属すべき事業を行っている組織がある。(ドラッカーは例として国防調達やNASAを挙げている。)
(2)の現実は、グローバル企業の進展、世界各国への侵食である。これはドラッカーが『マネジメント』執筆当時から既に抗しがたい企業活動、各国の経済の連結であり、21世紀に生きる我々からすればもはやその状態は空気や水のような当たり前で意識すらしない常識だ。しかし、ここへきての欧米各国のポピュリズムの隆盛は、ある面、重商主義の復活なのかもしれない。
(3)は、政府が無数の組織の一つにすぎなくなったことだろう。セキュリティは民間企業がサービスを展開し、少し話はずれるがいま勃興しているビットマネーなどは通貨すら政府や国家の手から離れようとしているのかもしれない。
(4)は言わずもがな。企業も国家も、かつては「オーナー兼政治家、企業家(=国の所有者支配者、企業の所有者が、それを“保有”支配する)」だったが、いまは組織に属するもののマネジメントの手にゆだねられることとなった。
「いかなる恒久解決、政治理論、モデルも存在しないとしても、企業と政府の関係に関わる個々の問題は解決していかなければならない。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
そこでドラッカーは、取り合えず具体的な問題に対する中間的かつ一時的な解決策の良否を判定するためのガイドラインが必要だと述べる。
「(そのガイドラインは)おくつか最低限の基準を満たさなければならない。すなわち、企業とそのマネジメントを自立した責任ある存在するものものでなければならない。変化を可能とする自由で柔軟な社会を守るものでなければならない。グローバル経済と国家主権とを両立させるものでなければならない。果たすべき機能を果たすことのできる強力な政府を維持強化するものでなければならない」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
社会が健全であるためには、そのリーダー的な地位にある者たちが多元的であって、異なる価値観、異なる優先順位、異なる方法論を持つ必要がある。常にそこには代わりとなるべき複数のもの、複数のキャリア、複数の視点、複数の生き方がなければならない。
「さもなければ、すべては画一的となり、かつ変革の能力を失う。変革の必要が生じたとき、リーダー的な地位にある者たち全員が当然とするもの以外は考えもつかないことになる。しかも、群れることのできない有能かつ意欲ある者たちが疎外される。」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
いわゆるダイバーシティを保ち、自立した責任ある企業活動を常に促す、その上で主権内での国民に果たすべく機能を維持強化する活動こそが、各国政府のあるべき姿であるということになろうか。