2017/07/31
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スペシャルコラムドラッカー再論
第84回
ドラッカーが解説する「X理論とY理論」。
- エグゼクティブ
- マネジメント
- 井上 和幸 株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO
マクレガーは、働く人と働くことについて2つの見方を提示した。
・X理論=人は怠惰で仕事を嫌うものであり、仕事を強制しなければならない。アメとムチの両方を必要とし、ほとんどの人は自らの責任を負うことができない存在である
・Y理論=人は働く欲求を持ち、仕事を通じて自己実現と責任を欲する
「マクレガー自身は二つの見方を示しただけであって、いずれが正しいとはいわなかった。だが彼がY理論を信じていると考えない読者、あるいはそのように仕向けられなかった読者はいないはずである。事実、Y理論を支持すべき論拠は豊富にある。組織や上司に反感を持つ者を含め、ほとんどあらゆる者が仕事が好きになることを欲している。仕事を通じて自己実現を欲している。最も疎外された者さえ仕事に満足の種を探している」(『マネジメント–-課題、責任、実践』、1973年)
ちなみにドラッカーは、マクレガーが「X理論とY理論」をまとめるにあたり、「私の著作『企業とは何か』『新しい社会と新しい経営』『現代の経営』をはじめとする他の人の考えをまとめただけである旨を明らかにしている」と述べている。(源流は自分の紹介した見方にある、との自慢?)
「二要因論/衛生要因と動機づけ要因」を説くフレデリック・ハーツバーグも、同じく働く者の自己実現欲求を重視している。
古くは数千年前、トゥキディデスがぺロポネス戦争の戦死者への弔辞をペリクレスに語らせた中に、スパルタがX理論社会でありアテネがY理論社会であったことが伺えるそうで、人の社会の源流を見るようで興味深い。
「もちろん現実は、マクレガーの追随者が考えているほど単純ではない。そもそもY理論だけでは不十分である。のちにマクレガーがY理論と名付けて有名にしたものについて私が初めて論じたとき、私はそのような人の見方が決して甘いだけのものではないことを再三強調していた。それどころか、働く者に責任をもたせ成果をあげさせることは、彼らとマネジメントの双方に重い欲求を突きつけることになると指摘した」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
エイブラハム・H・マズロー(欲求5段階説でご存知のことと思う)は、Y理論を支持しつつも、Y理論は私たちが見ていたものよりも更に厳しいものを要求すると指摘した。
マズローはその著書『自己実現の経営』の中で、責任と自己実現は、心身ともによほど強い者でなければ耐えられない重荷を課すことになると主張した。
これはとても理解できるところがある。
私の古巣のリクルートも、江副さんの時代からY理論を徹底し、責任と自己実現を全社員に要請する会社だが、リクルートの採用に従事していた私は、その採用基準において「ストレス耐性」や「感情の安定性」などについては妥協なく、それが高い人材のみを採用していたことを新人時代に学び、その意識でその後いまに至るまで、自社やクライアントの組織と人材を見てきているが、“リクルート的”に自律・活性化集団を築くためには、組成する人材がそもそもこの資質を満たしていない限り無理であることを知っている。
「Y理論が要求する自律と責任に耐えられない弱者に対して、私とマクレガーはきつく当たり過ぎているともいった。マズローは、強い者さえ秩序と方向性づけを必要とする、ましてや弱い者は責任という重荷に対して保護を必要とするとした。確かに世界は大人だけからなっているのではない。世界は大人になれない者であふれ返っている」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
そもそも人は、一人の中に、怠惰な自分と自己実現的な自分の双方を持つ生き物だ。
「ある状況では真剣に仕事をしない。ある状況では仕事を通じて自己実現までする。ということは、問題は人間の本性でも個性でもないということである。単に、異なる状況では異なる反応をする人たちがいるというだけのことである」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
人がいかに動くかを決め、人がいかなるマネジメントを必要とするかを決めるものは、人の本性のみによるわけではなく、仕事そのものだ、というのが、ドラッカーがこのことについて帰結したところだ。
「X理論とY理論」に唯一絶対の正解はない。江副さん、リクルートなどは、Y理論的であるために極限までY理論的資質を持つ人材の採用にこだわることで、ひとつの自社の解を見出してきた。
しかし、そこまで採用にこだわり切れる企業が少ないのも事実。
ではドラッカーは、どのような方策を我々に提示するのか? 次回、見てみたい。