TOP 私が経営者になった日 【村上農園 社長】 自分で考えろ自分で考えろ。(1/5)

2019/07/22

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私が経営者になった日

第21回

【村上農園 社長】 自分で考えろ自分で考えろ。(1/5)

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●「お前はどう考えるんだ」と鍛えられた。

土地勘も何もない北関東支社(現さいたま市)に配属になり、1週間ほどの先輩同行が終わると、いきなり新規取引で1500万円/3ヵ月の売上目標を与えられた。偶然の幸運にも恵まれ、目標はすぐに達成できたが、「自分で考えろ」と上司に鍛えられる毎日だった。

 

「今、当社の新入社員にも言うのですが、誰かに教えてもらったことをただ覚えてアウトプットするだけでは、学生と大差がないわけです。本当に教えることがあるとするなら、そのことについて『考える』こと。当時リクルートで上司によく言われた “お前はどうしたいんだ”という問いかけは、まさにそういうことだったと思います。」

 

いろいろ自分で考えるようになったら、上司に何か言われても「それはこうじゃないですか?」と反論することが増える。課会のほとんどは、村上氏と上司とのそうしたやり取りとなり、先輩には「お前のおかげで課会が長くなるんだよ」と嫌味を言われるほどだった。

●一人で考えてやれる環境が良かった。

入社半年で、宇都宮エリアを1人で任された。

 

「自分しかエリアを担当するものがいないということは、自分が動かなかったら栃木県のマーケット、栃木県の学生に情報が届かない。大げさに言えば、そういう社会的な使命感みたいなものがすごくありました。」

 

その結果、売上1億円を2億、3億と毎年増やし、新規に営業所を出せるまでに栃木の市場を拡大していく。

 

「私は人の言うことを聞くのが嫌いなので、一人で考えてやれる環境が良かったと思います。居酒屋で、もと不良少年が店長になった途端に、ものすごい何かをやって、すごくなるというのがあるじゃないですか。あのように早い時期から、マネジャーに近いポジションで、アルバイト10人位の採用もして、営業所を任されたのはとても良い経験でした。」

 

その後、本社に異動し、NTTの光回線のリセール事業であるI&N事業部へ。その後入社時の上司に誘われて関連会社のリクルート映像へ移る。リクルート映像では、営業企画から商品開発まで幅広い業務を任され活躍したが、家族の将来を考えると東京でのサラリーマン生活を続けることに疑問を抱くようになっていた。

 

 (構成・文/阪本淳子)
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プロフィール

  • 村上 清貴氏

    村上 清貴氏

    株式会社村上農園 代表取締役社長

    1960年、山口県生まれ(旧姓:田村)。広島大学総合科学部卒業後、83年にリクルートに入社。入社2年後には、求人誌事業の宇都宮営業所のリーダーとしてその地区の実質責任者を任される。その後、リクルート内でNTT回線リセール法人営業担当後、88年にリクルート映像に異動し、営業課長、マーケティング企画課長などを経験。創業者である叔父に請われ、93年、当時カイワレ大根専業大手であった村上農園に入社。97年、O-157騒動による大幅な売上減により倒産の危機に見舞われるが、以来10年間、農場内に住み込み、再建を主導。この間、「豆苗」、「スプラウトシリーズ」を商品開発し、日本の市場に新野菜として定着させる。01年には国内初の本格的な機能性野菜「ブロッコリースーパースプラウト」を開発し、注目を集める。07年より現職。 好きな言葉:「勝者には偶然があり、敗者には必然がある」「ピンチはチャンス」

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