2017/08/21
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スペシャルコラムドラッカー再論
第86回
ドラッカーが観た、「日本的経営の源流」。(前編)
- エグゼクティブ
- マネジメント
- 井上 和幸 株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO
その研究先というのは、あろうことか(あるいは、当然というべきか)、「日本」である。
「一見したところでは、日本のマネジメントはX理論そのもののように見える。日本はあらゆることについて厳格な国である。働く者や働き方のマネジメントに柔軟なところは一つもない。しかしそれは、硬直的か柔軟か、あるいは専制的か民主的かという観念では説明しきれないものである」(『マネジメント–-課題、責任、実践』、1973年)
日本的経営は、1920年代から30年代にかけて、テイラーのサイエンティフィック・マネジメントの導入を契機に企業用として発展したとドラッカーは語る。
その「日本式」の特徴としてドラッカーが指摘するのは、使うツールや方法は欧米と同じものであるが、職務の設計をマネジメント側が先に行うのではなく、仕事の内容を明らかにした段階で現場に任せてしまうところだ。
現場とマネジメントが一体として仕事をし、どちらかといえば現場の職場グループが仕事を総合的にまとめる。マネジメント(書内では「エンジニア」とされている)はそれを助けるだけである。
「仕事とツールへの関与は、日本では継続訓練の一環である。あらゆる人間、しかもトップマネジメントまでもが、退職する日まで研鑽を日常の課題とする」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
ここでドラッカーは日本人が「学ぶこと」についての目的と本質が欧米人とは異なることを示唆する。欧米とも異なり、また儒教の国、中国とも異なるという。
「儒教では欧米と同じように、学ぶことは次の仕事のためでもある。学ぶことの本質は学習曲線で示される。一定の学習によって高原に達し、そこにとどまる」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
一方の日本はといえば、「禅方式」とでも呼ぶべきものがあるのだ、と。
「(日本人にとって)学ぶことの目的は修養である。いま行なっている仕事を、より高度のビジョン、能力、期待値をもって行うためのものである。学習曲線に高原はない。継続学習は学習曲線を突き抜けさせる。そこから新しい学習曲線が始まる。すでにわれわれは、20世紀に入って、学ぶことの本質についての正しい考え方は儒教のそれではなく、禅のそれであることを知るに至っている」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
継続学習によって人は自らの事ぶり、基準、同僚の仕事を知ることができる。仕事を「われわれの仕事」として見ることができるようになるのだ。
元来、日本の組織は欧米に比べてはるかに縦割りであり、官僚的で、部門間の縄張り争いが激しい。構成員は完全なる忠誠を求められる。
なのに日本の組織構成員は、自らの所属と専門を超えて全体を見ることができる。所属外の組織で何が起こっているかにも興味関心を持ち、知ろうとする。全体を見つつ、そこで行われている一つひとつの仕事に関心をもち、その中で自身が果たすべき役割を考え行動する。
これらのことが、「禅方式」的な日本人の修養として学ぶ習性、継続学習体質にあると、ドラッカーは指摘している。
これはいま、我々経営者が、改めて再認識し強化に努めるべき「日本的」「日本人的」特質ではないだろうか。
「日本の組織では、継続学習が、新しいもの、革新的なもの、より生産的なものを受け入れやすくしている。サークル活動での焦点は、常によりよくである。新しいことを違った方式で行うことである」(『マネジメント–-課題、責任、実践』)
(続く)