2023/05/01
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スペシャルコラムドラッカー再論
第364回
働く人に対する企業の要求を明らかにする。
- マネジメント
- エグゼクティブ
- 井上 和幸 株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO
企業と人との間でのお互いの要求について考える際に、最初に問うべきは「企業は働く人に対して何を求めなければならないか」だとドラッカーは言う。
「標準的な答えは、「正当な一日の賃金に対する正当な一日の労働」という決まり文句である。しかし残念なことに、賃金についても労働についても正当とは何かを定義しえない。それ以上に問題なのは、この言葉が働く者に対し、あまりにも少ししか要求せず、しかも間違ったものを要求していることにある。」(『現代の経営』、1954年)
企業が働く人たちに対して第一に要求すべきは、企業の目標に進んで貢献することであるということに異論はないだろう。
ここでドラッカーはなかなか面白い思考実験をしている。
もし「手」や「足」だけを雇えるならば、正当な対価を支払うことに対して正当な価値を要求することができる。またもし「人」を丸ごと金で買えるのならば、それに見合う対価を支払うこともできる。
「しかし法の定めるように、人は商取引の対象ではない。まさに、労働とは人の働きであるがゆえに、一日の正当な労働なるものは決して得ることができない。なぜならば、それは黙従を意味するからである。そして黙従こそ、人という特殊な存在が行うことのできないものだからである。」(『現代の経営』)
働く人から何かを得ようとするならば、正当な労働などよりもはるかに多くを求めることが必要だ。正当さを超えて貢献を求めることが必要だ。黙従ではなく攻撃的な組織の文化を生み出すことを求めることが必要なのだとドラッカーは述べている。
「このことは、規格化した部品の大量生産とその多様な製品への組み立てという新型の大量生産や、プロセス生産、あるいはオートメーションのもとでは特に重要な意味をもつ。なぜならば、これらの生産システムのもとでは、働く人のほとんどが自らの行動に責任をもつ必要があるからである。」(『現代の経営』)
自らの仕事や作業の進め方、設備の保守管理の方法が、全体の生産をコントロールし決定するという簡単な理由から、自らの行動に責任を持つ必要があるからだ。
正当な賃金に対する正当な労働、という考え方は、意識・無意識を問わず、働く人は命じられたことだけをやればよいという生産システムを前提としている。
いわゆるウエッジワーカーだ。もちろんこの労働は、21世紀の現在においても存在している。しかしその比率は経年で下がっており、いまでいえばまさしくDX、AIにおいてリプレイスされていっている労働でもある。
「働く人に対しては、...
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