2021/11/22
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私が経営者になった日
第73回
【YKK AP株式会社 堀社長】役員にも物おじせずに提案し続け、ついにはストップをかけられた。(Vol.1)
- 経営
- キャリア
- 経営者インタビュー
- 堀 秀充氏 YKK AP株式会社 代表取締役社長
社長に任命された日=経営者になった日ではありません。経営者がご自身で「経営者」になったと感じたのは、どんな決断、あるいは経験をした時なのか。何に動かされ、自分が経営者であるという自覚や自信を持ったのでしょうか。
YKKグループでファスナー事業と並ぶ建材事業を担い、窓やカーテンウォールでは国内トップクラスのシェアを誇る。最近では「窓の会社」としての企業ブランドCMが印象的なYKK AP株式会社 代表取締役社長 堀秀充氏に3回にわたってお話をうかがいました。
【vol.1】役員にも物おじせずに提案し続け、ついにはストップをかけられた。
体が大きく生意気なガキ大将だった。
堀氏は高校生まで福岡県北九州市若松区で過ごした。
「一人っ子だったのですが、自分はワガママというか別に一人でいいという協調性がない性格の子どもでしたね。態度も悪くて、生意気だとずっと言われていました。
北九州の中でも割と気性の荒い地域でしたが、私は体が大きく、中学の頃までは結構ガキ大将的でした。でも高校が体の大きいやつじゃなくて頭のいいやつが評価されるような進学高だったので、あまり評価されなくなってしまいました」
質実剛健、文武両道を奨励する高校では、高校2年まで、体の大きさを生かして柔道をやっていた。得意技は内股からの袈裟固め。
「とにかく相手を倒せば寝技で勝負。私の袈裟固めは柔道の先生でもなかなか返せなかったですね。ただ、先輩を見たら耳がギョーザみたいになっていて、ああなりたくないと思って途中でやめたんです」
大学は地元を離れ、慶應義塾大学に進学した。
「小倉駅から上りに乗りたい、親元から出たいという、このふたつの思いです。この大学に行きたい、こんなことを学びたいというよりは、とにかく東京に憧れるというのと、親と一緒ではなく自分一人で住みたい、そんな単純な思いでの進学でした」
麻雀と読書とマルクス経済学を学んだ大学時代。
大学では勉強はあまりせず、バイトをしたり、頻繁に雀荘に通ったりしていたという。そして一人暮らしをするうちに104〜5キロあった体重は、4年間で自然に74~75kgに落ちていた。
「あまりお金がなかったので、自炊や粗食になるのですが、大学生ですからそんなに苦じゃないんですよね。それ以上に東京は楽しいというか、今までと全然違う環境だったので、東京での学生生活を満喫していました。
それから本も結構買って読んでいました。大学で奨学金もらっていたのですが、奨学金の中で1年で3万円ぐらい図書券が来るんです。それでランダムに買って、いろいろな本を読みました」
経済学部だったが、当時人気の計量経済学などではなく、マルクス経済学のゼミに入る。
「あまり勉強してなかったので、マルクス経済しか行けないだろうという消極的理由です。当時は高度成長時代で1億総中流みたいな感じだったんですけど、最近言われるいわゆる格差社会というのは、昔の搾取に近いなと。だから、今のこの現状を、マルクス経済学者は何も言わないのかなという感じは持っています。また公害も抑え込んだように見えましたが、見た目はきれいだけれど温暖化という環境破壊が起きている。経営者ですから、当時のマルクス経済で学んだ資本主義の暴走とまでは言いませんが、グローバルな競争社会になっての行き過ぎた格差や環境破壊という問題には向き合っていかなければならないと思います」
東京勤務を希望したが富山の工場勤務に。
「とはいえ、学生時代はノンポリ学生ですから、別に特別な思想を持っているわけでもなくて。卒論を書いていたら、世界で活躍している企業として、松下電器、今のパナソニックと、味の素と、YKKが出てきたんです。
少し興味を持って調べると、もちろんファスナーは世界一のシェア。建材は日本一のシェア。要するに、世界一と日本一。先輩に“あんまり大きい所、一流に行っても、東大・一橋・京大がいて、なかなか慶応なんて相手にされないぞ”という人もいて、じゃあ、ちょっと面白い所に行ってみようかなと思いました。ゼミの先生にも、YKKは非常に良いと言われました。上場はしてないけど面白いんじゃないかと。それと、本社が千代田区にあること。九州の田舎から出てきたので、首都の中央に本社があるというところに憧れて選んだんです」
ファスナーの国際事業に行かないかという話も出たが、当時あまり海外に興味のなかった堀氏は、東京勤務で建材事業でビルの営業を強く希望した。ところが配属は経理、しかも富山の生地(いくじ)工場勤務だった。
「私は経済学部で商学部でもないし、簿記もそろばんも知らないので、経理はやりたくありません、営業をやらしてくれと言ったんですけど、“経理から営業にはなれるけど、営業から経理にはなれないぞ”と言われました。
それで3年ぐらい経理を経験しておくのも良いか、それでも東京勤務で、通勤電車で日刊ゲンダイとか、夕刊フジでも読みながら帰るサラリーマンをイメージしていたのが、生地工場勤務を命ずと言われました。
富山県黒部市の生地、いくじという地名なので、ファスナーの布部分の生地を造っている工場に行くのだと思い、父親に言ったら、“若いときは工場に行くのが一番いいんだ”と言われました。実際行ってみたら、工場どころか本社に近いような、経理のトップもいるし、社長は半分来るし、役員もほとんど黒部勤務ということで、これはとんでもないところに来たなというのが最初でした」
常務とも話せるようになって仕事の面白さが加速。
「工場は土曜日も通常稼働で、今でいうブラックな勤務体系でしたし、直属の上司が5月ぐらいになるとずっと休むんです。それで先輩に“課長どうしたんですか”と聞くと“田植えをやっている”と言うんです。最初冗談かと思ったら、兼業農家の従業員も多く、割と普通のことだったんですね。こんな環境では自分はあんまり長続きしないなと正直思っていました。
ところが当時話題になっていた『マーシャルのk』について、そのときの経理の役員に“経済学部なんだろう、説明してみろ”と求められて、簡単なリポートを書いたんです。それをきっかけに、入社1年目ぐらいでしたが、部長や課長とも、いろいろな話をするようになりました。3年目位には、研究開発費にも関わり始めて、生意気だったんですけど、役員ともいろいろ話すようになって面白くなってきました」
さらに研究開発にも予算制度を作ろうと考え、開発関係の役員といろいろ話をしていく。
「当時の経営会議に提案して、入社4、5年目でそんなことできるのかというような仕事をやらせてくれたんです。ただ、ちょっとやり過ぎてしまったようで、そのうち開発関係の役員同士が予算制度のせいで揉めてしまい、“経理はどこの味方になっているんだ”みたいなことになってきたのです。
それで入社8年目に、経理のトップが、“私は若い人間がどんどん仕事をするのにストップをかけたことはないけど、お前の場合はちょっと一回ストップかける”と言って、アメリカに異動になりました。このまま置いておくと何をするか分からないというのもあったのかもしれません」
(第2回につづく)
(構成・文/阪本 淳子)
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